門扉には鉄製の飾りがあったが、太平洋戦争中の金属回収令により供出され、引き抜いた跡がみられる。 白黒の海鼠壁は財力や漆喰職人の腕前を現すステータスシンボルとなっていた。
築年数の印字が確認できなかったため、古文書の記録から江戸後期建造と推定している。 当初は茅葺きであったが、後に近隣に先がけ瓦葺き(藤沢新田林瓦店と印字)となる。 東日本大震災でめくれ上がり、翌年にガルバリウム銅板に葺き替えた。
位の高い者のみが利用していた玄関。
式台を上がったさきにある部屋。 特別な御客様を御出迎えする際に使われていた空間。 太平洋戦争中は、馬でやってきた陸軍中尉が駐留していた。
後ろを振り返ると、主庭を眺められる。
書院の間から内庭を眺められる。 内庭は周囲が塀で囲われており、位の高い者のみが楽しんでいた。
現在も母屋は一部、居住しているため、4部屋36畳のみ利用可能。
江戸末期に武士の刀などの質蔵として使っていたこともある。 屋根下に「下邑」の印が見られる。 倒壊のおそれがあるため、屋内には入れない。修繕費には2000万円を要す。この蔵のご寄付はGo to linkへ
大正13年建造。 もともとは一の蔵と同じデザインの蔵が建っていたが、関東大震災により倒壊したため、新たに建造したもの。
大正10年建造。 米倉としては、かなり大きい部類に入る。 戦時中に米軍の戦闘機から見えづらくするために黒で塗られた。 戦後はGHQから送られた食糧の貯蔵庫になっていた時期もあり、それを示すプレートが打ち付けられている。
長屋門をくぐると庭屋一如の見事な景色が目に飛び込む。 正面にある二つの土蔵を庭木で隠すことで建物と庭が溶け合うような表現がなされている。 正面の2つの土蔵は筑波山を表現しているのではと考察する建築家もいる。 母屋と米倉を正面ではなく、両脇に配置しているため、これから見る屋内への期待を膨らませてくれる。
母屋の横にある、内庭へ出入りできる門。 位の高い者のみが立ち入ることの出来た庭園。
樹齢不明の欅の大木をはじめ、雑木林がございます。
下邑家から徒歩10分。敷地面積20,900 m(6300坪) ぶどう畑の向こうに筑波山が望める。10名以内ならワイナリー屋内でワイン飲食可(ワインは別料金)